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かつて、ビクトリア・ワードと夫のカーティス・ペリー・ワードはホノルルの中心地に100エーカーを超える土地を所有していました。その土地の最も距離が長い部分は、トーマス・スクエアから海岸までありました。1870年代に土地所有に関する法律改定以前は、所有地に接する浅瀬や延長海域の漁業権までもがワード家のものでした。
ビクトリアは、イギリス人の船大工、ジェイムス・ロビンソンと、ヒロのカウとマウイのホノコワイの酋長の地を引くハワイ女性の間に、1846年にヌウアヌで生まれました。ビクトリアの夫となるカーティス・ペリー・ワードはケンタッキー州で生まれ育ち、1853年にハワイに移住しました。南北戦争の時には故郷の南部の州を擁護する活動家であった彼は、ビジネスに対する慧眼と家族に対する深い忠誠心を持った人でした。1865年にビクトリアと結婚した時には、ワード家は繁栄するホノルル・ハーバーで荷車の貸し出しや運転をするビジネスを成功させていました。
この時期、イギリスとハワイの血を引く者が結婚した若いカップルの多くがそうしたように、カーティスとビクトリアも、英国を離れてホノルルに住んでいるイギリス系の家族やいくつかのロイヤル・ファミリーと交友がありました。ハワイの政治が大きく変動しつつあり、二人は仲間とともに、勢力を増す砂糖業者たちに対抗し、アメリカ合衆国との利害関係を深めることに反対しました。後年も、ビクトリアは自分の政治信条を守り、1893年にハワイ王朝が倒れた後もリリウオカラニの忠実な友人であり支持者であり続けました。
長年の間、カーティスとビクトリアはホノルル・ハーバーの近く、現在デイビス・パシフィック・センターがある場所に住居を構え、その間に7人の娘を生み育てました。その7人は、メアリー・エリザベス(後のフランク・ハステイス夫人)、クラマル、メイ(後のアーネスト・ウォードハウス夫人)、エイネイ、ルーシイ、キャサリーン、ラニです。
ワード家が最後に住んだ家は「オールド・プランテーション」と呼ばれ、現在ブレイズデル・コンサートホールとアリーナがある場所にありました。1882年に建てられた南部様式の大邸宅の敷地には、掘抜き井戸、菜園や花の庭園、魚のいる池、そして馬や牛を放す広大な草地がありました。自給自足のできる農園であり、周りをココナッツの林で囲まれていました。現在でもコンサートホールの敷地には、樹齢が100年を軽く超えるこれらのココナッツの木が残っています。「オールド・プランテーション」はホノルルの史跡の一つとして、約80年ほどの間その姿をほとんど変えずに存在していました。
ワード家の人々はハワイ文化の伝統継承に力を注ぎ、地域社会に貢献する様々な活動に協力しました。早くから子供の福祉や動物保護の推進に協力し、ハワイ動物愛護協会の設立には多大な努力を払いました。また、カピオラニ・マタニティー病院、クレメント教会、アカデミー・オブ・セイクリッド・ハートには経済的な援助を行ないました。
1882年に夫のカーティスが亡くなった後、ビクトリア・ワードは娘たちとともにワード家の不動産の管理を行ないました。土地の利用法方について彼女たちが決定したいくつかの事柄は、現在でもハワイの開発状況や、そこを訪れる住民や旅行者に影響を及ぼしています。
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